原点回帰 第2章 ~570kmの旅路~
2024年7月2日で、開院して3年8か月が経過しました。この日までに、11483名の新規の患者様が来院され、3457件の手術(このうち白内障手術は3399件)を施行させていただきました。
先日、私用で函館を訪れる機会が2回ありました。
当院を開設する前の2020年に吉田眼科様に勤務させていただいた際と、2022年に参加した函館マラソン以来の函館です。
今回は、私の両親も含めた家族と一緒に訪れる機会もあり、これまでとは違った心境での函館訪問となりました。
ここ最近の函館は、アニメ映画『名探偵コナン 100万ドルの五稜星(みちしるべ)』の舞台になったことにより、国内外の多くの観光客が訪れ、大変な賑わいを見せているそうで、今回私たちが訪れた際も、その真っ只中で大変な混雑でした。
当ホームページ内のプロフィールにも記載しておりますが、私は函館市内にある函館ラ・サール高校を卒業しました。故郷からは570km離れた函館の地での寮生活で高校3年間を過ごしました。
2020年の函館勤務の合間に一度、一人で母校を訪れ、敷地の外周をゆっくり徒歩で一周しましたが、今回は、家族と共に車で外周を回りました。
前回は、函館までは飛行機での移動でしたが、今回は、北見から函館までの570kmを自分で車を運転しての移動でしたので、「こんなにも遠く離れた地に来ていたのだ。」と、その距離の長さを改めて実感したという背景があり、また違う心境での訪問となりました。
ちなみに、私の高校生当時は、網走と函館を乗り換えなしで結ぶ直通の特急列車『おおとり』があり、およそ10時間かけて函館まで移動していました。
短い時間ではありましたが、車を運転しながら、家族に当時の学校生活の思い出話もして、とても感慨深いものがありました。私の両親にも改めて私の母校を見せてあげたいという思いもありましたし、妻と子供たちにも当時の私の高校時代をわずかながらでも共有してもらいたいという思いもありました。
現在は、当時の校舎や寮は建て替えられ、当時の校舎の一部が残っているのみですが、敷地は同じで学校全体の雰囲気は変わっておらず、自分の視界においては、昔の校舎が甦った状態で鮮明に映り込んできました。学校の周囲の環境もかなり変わってしましましたが、今も残っている建物を基準に当時の街並みが鮮明に蘇ってきました。
それぞれの場所で、当時の自分の姿、心境を思い返して、まるで、35年の時を越えてタイムスリップしたような感覚となり、胸が熱くなりました。
高校3年間は、親元を離れ、はるばる遠き函館の地まで来て、寂しい気持ちもあり、うまくいかないことがあれば泣きながら親に電話で話をしていたこともありましたが、若いなりに覚悟(わざわざ地元を離れて、親にも負担をかけ、強いライバルと切磋琢磨しながら勉強に専念する環境を求めて、遠い地での寮生活を選択したのだから、一日たりとも無駄にせず、必ず結果を残すという覚悟)を持って、強い気持ちで日々を過ごしていたように思います。
当時は毎日、寮と学校を渡り廊下を通って往復しておりましたので、外の空気に触れることがほとんどない生活でした。寮生活においてテレビを見たことはただの一度もなく(寮内には『テレビ室』というテレビを見ることのできる部屋は存在しました。)、部活動にも所属しておらず(運動が大好きで中学までは野球部でしたが、高校レベルで学業と部活を両立する自信が全くなかった。)、娯楽としては、学校の体育の授業や体育祭、夜就寝前のわずかな時間に聴いていたラジオの深夜放送(具体的な番組は、『木村洋二のアタックヤング』、『明石英一郎のアタックヤング』、『松任谷由実のオールナイトニッポン』など)くらいで、いわば世の中から隔離されたような生活でした(学園祭で、光GENJIや浅香唯、工藤静香、Wink(ウインク)などのコピーが演じられている様子を見て、それらのアイドルの存在を初めて知り、カルチャーショックを受けた記憶は今でも鮮明です。)が、函館まで来た意味を常に自分に言い聞かせながら、つらい気持ちを振り切って、淡々と生活していたように思います。
親も相当寂しいをしていたのではないかと想像します。後から聞いた話ですが、入学式に付き添ってくれた母親は、帰りの列車の中で涙を流していたそうです。函館ラ・サール高校の寮は、1年生は寝室が一部屋約100人収容の部屋(通称100人部屋)に、仕切りの無い2段ベッドがずらりと並び、プライベート空間は自分の布団の上と40人程度収容の勉強部屋(自習室)の、これまた仕切りのない自分の机と椅子のみでした(2年生と3年生は4人部屋になります。)。そのことは、あらかじめ入学前から説明は受けておりましたが、入学して実際に目の当たりにすると、その光景は、かなりショッキングなものでしたので、余計に感情が溢れたのかもしれません。
また、地元で私と同学年の高校生の姿を目にするたびに、私の姿を重ね合わせて思い浮かべ、私が地元に残っていた場合の生活を想像して、幾度となく寂しい気持ちになっていたそうです。今、私の子供も当時の私と同じ年齢に達し、当時の親の気持ちが身に染みて理解できるようになりました。
現在はどうかわかりませんが、当時の寮は、特に1年生の生活は厳しく管理されていました。門限をはじめとする時間の厳守や自習室内での私語の禁止のほか、消灯後は寝室内で物音を立ててはいけなかったり、ベッドの下からスリッパがはみ出ていてはいけないなど事細かな規則がありました。
もし規則を守らなければ、チューターという指導係(自習中の監督や夜間の見回りなどを行い生活指導をする係)の2年生の先輩に呼び出され説諭(せつゆ)という厳しい説教を受けます。説諭の回数が重なると反省文を書かされ、さらに回数が重なると、チューター会議という場に呼び出されさらに厳しい説諭を受けることになります。
規則は多かったのですが、自分の中ではそれは苦痛ではなく、むしろ規則があることで、多くの個性が混在する団体生活において、生活や学習をするための環境が整い維持されるという安心感の方が大きかったように思います。
そのような環境でも、学生の価値観、個性、能力は様々で、部活に打ち込んだり、部活と勉強を見事に両立させたり、休日に外出をして羽を伸ばしたりと学生生活を大いに楽しんでいる人たちもたくさんいましたので、結局は、本人の考え方や要領次第で、様々な形の生活ができる環境ではあったのだと思います。
中学卒業時、突如として函館行きを思い立った私を快く送り出してくれ(内心かなりの動揺があったに違いないと想像します。)、いろいろな意味で、いろいろなものを犠牲にしながら支えてくれた両親には、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
寂しくつらい日々でしたし、結果的には、受験において当時の自分が思い描いていた理想を実現することはできなかったのですが、あの頃の経験がなければ、現在の立ち位置には決して至っていないはずなので、本当に貴重な経験であったと思っています。当時の経験がさらに価値あるもの、輝かしいものになるように、これからも精進していきたいと考えています。
さらに先月末には、函館マラソンに参加するため、函館を訪れました。前回2022年はフルマラソン42.195kmでの参加で、難コースと厳しい暑さに打ちのめされ、帰りの飛行機に乗り遅れそうになったことは、当時のブログで紹介させていただきましたが、今回はその反省から、ハーフマラソン21.0975kmに参加しましたので、帰りはかなり時間に余裕を持つことができました。
今回も気温が高く、歴史ある函館マラソンにおいて、大会史上最高気温だったそうですが、レースの結果は散々でした(練習不足であったことは間違いありませんが、年齢のせいであるとはまだ絶対に認めません。)。しかしながら、レース前後で時間に余裕があったので、函館の街中をぶらぶらして、名物の食べ物も口にすることができたので、時間も移動手段もお金もなかった高校時代に体験することができなかった、とても良い思い出ができました。