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追悼

[2024.03.09]

 2024年3月2日で、開院して3年4か月が経過しました。この日までに、10780名の新規の患者様が来院され、3113件の手術(このうち白内障手術は3063件)を施行させていただきました。

 先日、ある患者さんを通じて、私の小学校の担任の先生、山本信子先生が亡くなられたことを知りました。

 山本先生は、私が北見市立緑小学校に通っていた当時、5年生と6年生の時に担任をしていただいた先生でした。私にとっては、まさに恩師で、卒業後も何十年にもわたって年賀状のやり取りもさせていただいておりました。

 当時はすでにベテランの域の女性の先生で、確か身体の不自由なご姉妹の面倒を見ながら独身を貫き、教職の責務を全うされていた先生です。ご自宅のある美幌町から北見市郊外の緑小学校まで、列車とタクシーを乗り継いで毎日通われておりました。

 私の担任になられる以前は、端野小学校で私の従妹の担任もされており、とてもご縁がある先生でもありました。当時、叔母からも素晴らしい先生であるという評判も聞いておりましたが、まさにその通り、厳しい先生でしたが、素晴らしい人格の先生でした。

 勉強以外にも、かなりの頻度で手書き(とんでもなく達筆でした。)の学級通信を作成され、様々なレクリエーションなどを企画されるなど、多くの時間を投じてくださり、クラスの全員にいろいろな体験をさせてくださいました。

 個人的にも、私の様々な過ちに対して厳しくご指導くださり、大きな挫折を味わった時には強く温かく励ましてくださいました。児童会の選挙に立候補した際にも、布(模造紙で作るのが通例でした。)に毛筆の手書きで、立派な襷(たすき)を作ってくださり、他のクラスの候補者を圧倒するような応援をしてくださったことは、とてもありがたく強烈な印象として心に残っております。

 戦争の時代も経験されており、平和に暮らせることがどんなに貴重なことであるかを常々語っておられました。私が6年生の時の学芸会では『広島のピカ』という演劇が企画され、私も役をいただきました。核兵器の恐ろしさ、戦争の悲惨さについて学び、平和の尊さを身に染みて体感することができた貴重な機会をいただくことができました。その経験から、私がかつて広島県に移住していた際に、広島市内の原爆の爆心地や原爆ドーム、原爆資料館を見学した時に感じたものは一層深く大きなものになりましたが、そこにも何かのご縁を感じざるを得ませんでした。

 また、「健康第一」を常に強調されていたことも印象深いです(腰にはいつも万歩計を付けておられました)。当時の私は大きな病気などしたこともない元気な子供でしたので、健康であることが当たり前の感覚でしたから、「健康第一」と言われてもピンと来ていなかったのですが、大人になり歳を重ねていくうちに周りで健康を害する方が増えていき、医師という職業柄、病気の方と接する機会も多く、今では「健康第一」という言葉の重みを実感しています。先生は、当時元気はつらつ、病気知らずの元気な方でしたが、ご家族に身体の弱い方がいらっしゃった故のお言葉だったのだと思います。

 小学校時代は、各教科の授業内容というよりも、担任の先生からの、普段の生活態度や人生に対する考え方などについての教えの方が印象深く、脳に心に焼き付いているように思います。

 最近の学校教育の現場では、教科を教えることが教師の本来の業務であり、それ以外の業務は教師がすべき仕事ではないという主張も多く耳にするようになりました。最近の小学校では、家庭訪問が廃止されるなど教科の授業以外の業務を極力減らすべきであるという流れになっているようです。

 働き方改革の流れやモンスターペアレントの増加なども背景にあると聞きますが、私の恩師の当時の姿を思い起こすと何とも寂しい気持ちになります。

 山本先生は、教職といういわゆる『聖職』に誇りを持ち、一人一人の子供たちを立派な人間に育てて巣立たせていくという使命感に満ち満ちていらっしゃったように思います。勉強を教えることももちろんですが、人間形成に対して圧倒的な熱量があったように思います。

 現在の自分の姿を鏡に写すと、お恥ずかしいことに、山本先生からの教えをまだまだ実践できているとは言えませんが、山本先生の教えが自分の人生の原点、礎になっていることは間違いありません。

 山本先生の想いと情熱は、私の心の中にいつまでも生き続けることでしょう。

 山本先生から教えを受けた子供の一人として誇りを持ち、先生の教えを少しでも多く実践して世の中の役に立てるように、これからも精進していきたいと考えております。

 

 

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